前回の記事を書いた後、なんか少し書き足りなかったから、追記。
僕の言う「コミュニケーション」ってのは、他者とのコミュニケーションのことだけを言ってるんじゃない。
むしろ、「自分とのコミュニケーション」が一番大切だって思ってる。
ただ、それは、「自問自答する」っていうことではない。
ま、ひらたく言えば、「頭で考える」ってことじゃない。
もっと単純なことだ。
たとえば、なにかを食べた時に「おいしい」って思う感覚、あるいは、誰かに喜んでもらって「うれしい」って思う感情、はたまた、物語の登場人物の台詞なんかに共感して震える感じ、そういう、日常のありふれた出来事の中で「自分を感じる(自分の感じていることを素直に味わう)」ことが大切なのだと、僕は思っている。
そして、そこを出発点にして、本当の意味での他者とのコミュニケーションが育まれると思う。
というより、そこを大切にしないと、本当の意味での他者とのコミュニケーションはできないと思う。
ん〜、もっとシンプルに言おう。
つまり、「自分にも他者にも思いやりを持とう」ってことだ。
「他者」っていっても、それは人間だけじゃない。
そこには、動物も、自然も、物質も含まれる。
そういえば、こないだ、津波に備えて、でっかい堤防を作るの作らないのなんていう議論が持ち上がっているという話を読んだ気がする。
怖れは壁を作り出す。
壁は分裂を引き起こす。
分裂は対立を生みだす。
その負の螺旋からは、もう卒業した方がいい。
編む
ほぼ日の『メディアと私』という連載を読んでいたら、最近、自分が感じていたことと似たようなこと(こないだ、このブログにも書いたばっかし)が書いてあって、なんだか「うぉ!」と思った。
その部分をいくつか勝手に抜粋さしてもらっときます。
もうひとつ。
つまり、これからの時代は、「コミュニケーションそのもの(みんなと共に歩む道のり)の中に答えを見出す在り方」がカギになるということ。
そして、「完成されたものや、便利なものというのは、コミュニケーションを生まない」ということ。
別の言い方をすると、これからの時代は、「みんなで余白を埋めていく」みたいなことがカギになるんじゃないかって気がしてる。
というか、実はもうすでに、その兆しはキラキラと現われているのだけれど、これからは、もっともっとそういうことを面白がり、楽しみだす時代になるのだと思う。
それから、最後にもうひとつ、僕の好きな言葉(僕の指針のひとつになってる文章)があるから、それを載せとく。
ヘッセの『郷愁(ペーター・カーメンチント)』より。
優しく、思いやりがあって、寛容な人たちが、ムダに傷付かなくて済む時代が、早く来るといいね。
ま、必ず来るけどね。
その部分をいくつか勝手に抜粋さしてもらっときます。
新聞とか雑誌とか、
ある種のアカデミズムを持つ文章って、
なんか、閉じた小宇宙、みたいなところがあって。
(中略)
ひとつひとつが完結していて、
そのまわりをピカピカに磨いて
「できましたよ」っていう感じなんですよね。
だから、完成されてはいるんだけど、
広がりもないし、すごく箱庭的になってしまう。
もうひとつ。
つまり、人とやり取りをしていくこと自体が、
だんだんとなにかの物語を編んでいくような、
そういう世界をつくっていくんじゃないのかなと。
つまり、これからの時代は、「コミュニケーションそのもの(みんなと共に歩む道のり)の中に答えを見出す在り方」がカギになるということ。
そして、「完成されたものや、便利なものというのは、コミュニケーションを生まない」ということ。
別の言い方をすると、これからの時代は、「みんなで余白を埋めていく」みたいなことがカギになるんじゃないかって気がしてる。
というか、実はもうすでに、その兆しはキラキラと現われているのだけれど、これからは、もっともっとそういうことを面白がり、楽しみだす時代になるのだと思う。
それから、最後にもうひとつ、僕の好きな言葉(僕の指針のひとつになってる文章)があるから、それを載せとく。
ヘッセの『郷愁(ペーター・カーメンチント)』より。
そうして、なににもまして、愛というものの美しい秘密を、きみたちの心の中に植え付けたいと思った。
(中略)
このようなことすべてを、わたしは賛歌や雅歌のようにではなく、素朴に、真実に、具体的に−−旅行者が帰ってその仲間によその土地のことを物語ってきかせるときのように、本気で、そして冗談めかして描きたいと望んだ。
優しく、思いやりがあって、寛容な人たちが、ムダに傷付かなくて済む時代が、早く来るといいね。
ま、必ず来るけどね。
2012年01月21日
自由
昨晩の秋元康さんのGoogle+での一連の書き込みに感動した。
簡単に説明すると、AKBのメンバーがGoogle+に投稿する際には、運営側から検閲を受ける(メンバーの書いた投稿を、運営側の人間がチェックした上でアップされる)らしいのだけど、秋元さんから運営側に対して、「そんなことはやめて、自由にやらせてあげなさい」という指示がなされたというもの。
僕は、その一連の流れを見てて、なんというか、本当に嬉しかった。
というのは、時代が変化している兆しのようなものを感じられたから。
数日前のブログでも書いたのだけど、「相手を束縛しようとすると、相手だけではなく、自分をも束縛してしまう」のだ。
それを、今回の件に当てはめれば、運営側がメンバーを束縛すればするほど、自分たち自身をも束縛することになるということ。
つまり、さまざまな規制を設けたばかりに、それを守らせるための余計な仕事がどんどんどんどん増えていき、そのことが結局は自分たち自身をも苦しめることになるわけだ。
一体、そんなことをして、誰が得するのだろう?
一体、そんなことをして、誰が楽しいのだろう?
みんな苦しんでるだけじゃないか。
秋元さんの一声は、そんなストレスを解放させる動きを生みだした。
その様子を見ていて、僕が嬉しくないわけがなかった。
もちろん、運営側の気持ちも分からないことはないのだ。
なにせ、普段から、ファンの人達なんかから「やいのやいの」言われるものだから、ついつい予防線を張ってしまいたくもなるだろう。
だけど、そこでグッと構えて、身を固くしてしまうと、もっともっと状況は悪化する。
あるいは、運営からすれば、「メンバーを守ってあげている」という感覚もあるのかもしれないけれど、それは「危ないから」と、子供に自由に遊ばせない親の感覚と同じで、自分達のエゴ(怖れ)によってメンバーを無用に束縛しているだけなのだ。
本当は、そんな怖れを手放して、もっとメンバーやファンを信頼していい。
そして、「怖れ」を手放すには、「寛容さ」がカギになる。
誰もがみな、もう「北風」は卒業して、「太陽」になる時だ。
数日前の記事に書いたことをもう一度書くが、自分が自由になりたければ、相手を自由にしてやることが必要なのだ。
すなわち、自分が自由になることと、相手を自由にすることは常にセットなのだ。
相手の縄を解いた瞬間、自分も自由になる。
これからは、そういう時代なのだ。
そして、僕はそのことが本当に嬉しい。
そのことを喜んでいる。
簡単に説明すると、AKBのメンバーがGoogle+に投稿する際には、運営側から検閲を受ける(メンバーの書いた投稿を、運営側の人間がチェックした上でアップされる)らしいのだけど、秋元さんから運営側に対して、「そんなことはやめて、自由にやらせてあげなさい」という指示がなされたというもの。
僕は、その一連の流れを見てて、なんというか、本当に嬉しかった。
というのは、時代が変化している兆しのようなものを感じられたから。
数日前のブログでも書いたのだけど、「相手を束縛しようとすると、相手だけではなく、自分をも束縛してしまう」のだ。
それを、今回の件に当てはめれば、運営側がメンバーを束縛すればするほど、自分たち自身をも束縛することになるということ。
つまり、さまざまな規制を設けたばかりに、それを守らせるための余計な仕事がどんどんどんどん増えていき、そのことが結局は自分たち自身をも苦しめることになるわけだ。
一体、そんなことをして、誰が得するのだろう?
一体、そんなことをして、誰が楽しいのだろう?
みんな苦しんでるだけじゃないか。
秋元さんの一声は、そんなストレスを解放させる動きを生みだした。
その様子を見ていて、僕が嬉しくないわけがなかった。
もちろん、運営側の気持ちも分からないことはないのだ。
なにせ、普段から、ファンの人達なんかから「やいのやいの」言われるものだから、ついつい予防線を張ってしまいたくもなるだろう。
だけど、そこでグッと構えて、身を固くしてしまうと、もっともっと状況は悪化する。
あるいは、運営からすれば、「メンバーを守ってあげている」という感覚もあるのかもしれないけれど、それは「危ないから」と、子供に自由に遊ばせない親の感覚と同じで、自分達のエゴ(怖れ)によってメンバーを無用に束縛しているだけなのだ。
本当は、そんな怖れを手放して、もっとメンバーやファンを信頼していい。
そして、「怖れ」を手放すには、「寛容さ」がカギになる。
誰もがみな、もう「北風」は卒業して、「太陽」になる時だ。
数日前の記事に書いたことをもう一度書くが、自分が自由になりたければ、相手を自由にしてやることが必要なのだ。
すなわち、自分が自由になることと、相手を自由にすることは常にセットなのだ。
相手の縄を解いた瞬間、自分も自由になる。
これからは、そういう時代なのだ。
そして、僕はそのことが本当に嬉しい。
そのことを喜んでいる。


